中ノ庄村

【中ノ庄村】 なかのしょうむら 現在の中庄町

三寺村の東に続く中ノ川中流域の村。昼生谷のほぼ中央部に位置する。
中世は上ノ庄(かみのしょう)・下ノ圧と並ぶ昼生庄の中心であったと思われる。
昼生七郷の一に数えられ(三国地志)、関氏の関谷(せきだに)二四郷に含まれた(995集)。
南北朝期には半済の地となっていたらしく、延文2年(1357)中御門宰相〈宗重か〉家雑掌良禅の訴によって
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伊勢国昼生中下両庄事知行状較遣之早、当国一方敵
陣之間、半済下地所返付本所也、退違乱輩、可被沙
汰候下地於雑掌、若無承引者、任警置法可有其沙汰
之間、可被下知、為後代之状如件、

延文二年八月廿一日  御判
仁木右京大夫殿
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という尊氏下知状(京都御所東山御文庫記録)が示すように、下庄とともに下地が本所中御門家に返付された。
近世は久居藩領。宝永年間(1704-11)以降、大助郷制の実施に伴って亀山宿の助郷村に加えられた(亀山地方郷土史)。
庄屋は草川家の世襲と伝え、寛延期(1748-51)の家数70戸、ほかに郷士2、人数325、馬11頭、牛10頭。
神祠は中ノ川南岸にある於々奈気(岐)神社で伊佐那岐命を祀り、ほかに神明・八王子・稲荷・若宮がある(宗国史)。
寺院は西正寺(浄土真宗本願寺派)・正法事(現真宗大谷派正法寺)・法泉寺(現真宗高田派法専寺)。
明治22年(1889)の戸数76戸、人口399人(「郁町村分合取調鮎」三重県庁蔵)。同年昼生村成立の際村役場が置かれた。