注釈

【宗国史(崇廣堂本)】 ソウコクシ(スウコウドウ ボン)

  『宗国史』は、藤堂家の分家である出雲家6代の藤堂高文(1720~1784)編修、同家9代の高芬(たかか)(1785~1840)校訂とされる藤堂藩の歴史をまとめた書籍である。編修当初の寛延4年(1751)には全100巻の膨大な構想が立てられたが、実際に脱稿された巻冊数がどれ程のものであったかは不明である。
 現存する諸本のうちでは最もまとまったものが崇廣堂本で、6編32巻32冊が残り、筆跡は2筆に分かれる。藩校伊賀枝校の崇廣堂蔵書として伝来するが、その全てに11代藩主藤堂高猷(たかゆき)(1813~1895)の蔵書印「観月楼(かんげつろう)蔵書(ぞうしょ)」の印記が見られ、藤堂本家旧蔵本の由が窺われる。また、校訂者高芬の墓碑には、文政11年(1828)に高猷へ献上した旨の一節があり、当該稿本がこの際の高芬献上本を含む可能性も併せて考えられる。
 藤堂本家に伝来した『宗国史』は昭和の戦災によって焼失したが、明治20年に内閣臨時修史局が転写し、東京大学史料編纂所に全8巻6冊が所蔵されている。これの行数や1行字数は崇廣堂本とほぼ一致し、筆跡からも藤堂家本と崇廣堂本の一部が、同一人の手跡であった可能性を窺わせる。
 『宗国史』稿本は、この他に藤堂高文・高芬の属す出雲家と藩校有造館(ゆうぞうかん)にまとまった稿本が所蔵されていたが、戦災や散佚(さんいつ)により、有造館本の1巻1冊が残るに過ぎない。このように、他の主要伝本が全て失われた今日、揃本とは言えないまでも32冊の大部に及び、高芬校訂の直後もしくはほぼ同時期に成立したと考えられる崇廣堂本『宗国史』の価値は極めて高いものと評価できる。

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【三国地志(藤堂采女家旧蔵本)】 サンゴクチシ(トウドウ ウネメケ キュウゾウボン)

 『三国地志』は、伊賀上野藤堂家家老の藤堂元甫(とうどうげんぽ)が編纂し、宝暦13年(1763)に完成した伊勢・伊賀・志摩の3国にわたる地誌の書で、近世の三重県内の様相を伝えるものとなっている。完成した『三国地志』は藤堂本家・藤堂采女(とうどううねめ)家(元甫の家)に置かれたとされているが、現存していない。
 本書は文化9年(1812)に転写された本で、藤堂采女家に旧蔵されていたものである。この他にも幾つか簡略本等は存在するが、本編及び図が全て揃っているのは本書のみである。
 また、『伊賀国式社考』に書かれた文章より、この本が転写された経緯も明らかであり、上記の点からも貴重なものであると考えられる。

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【民経記】 ミンケイキ

民部卿権中納言広橋(勘解由小路)経光(1213‐74)の日記。別名《経光卿記》《中光記》ともいう。自筆本46巻。1226年(嘉禄2)から68年(文永5)までの40余年間にわたる日記で,鎌倉中期の公家社会の動向を知る重要史料。柳原本,上野図書館本,歴代残闕日記本などの写本があるが,散逸した部分も少なくない。原本は東洋文庫に所蔵。【関 幸彦】

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【神宮雑書】 ジングウザツショ

「神宮古典籍影印叢刊 神宮神領記」の一部
神宮雑書は主として鎌倉時代初期の神宮関係文書65通を蒐録したもの。建久三年八月の神領注進請文は最重要史料。
伊勢の神宮の上代より鎌倉初期までの由緒,神領,行事などについて記した史書。2巻。巻一に御鎮座事,付として宮地を改むる事,二社太神宮朝夕御饌事,御井社事,神封事,巻二に神宮四至事,内侍所事,心御柱事,天平賀(あめのひらか)事,政印事,年中行事事と10項目にわたって記す。神宮の古伝,また当時京都方面に存し,現在に伝えられていない史料などを基礎として編述されたものとみられ,神宮史,神道史のみならず,古代史研究上も重要な一書。

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【中臣祐定記】 ナカトミノ スケサダ キ

1229(安貞3)~1246年(仁治2)-現存分-
中臣祐定の記した春日社家日記。春日社の記録を中心に当時の南都、及び畿内の出来事を記す。祐定は若宮神主で祐明の嫡男。

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【吾妻鏡】 アズマカガミ

東鑑とも書く。鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書。巻数未詳。後世52巻と訛伝。編年体で,各将軍ごとにまとめられる。13世紀末~14世紀初頭の編纂。ただし完成したかどうか不明。1180年(治承4)以仁王・源頼政の挙兵に起筆し,1266年(文永3)6代将軍宗尊親王送還までを扱う。日記体をとるが,種々の史料を収集して,後に編纂した書物である。その編纂の仕方は,収集した史料を年月日順に貼り継ぎ,これに編纂者が筆を加えるという,伝統的な編修方法によっているため(これを抄録,切貼り細工と呼ぶ),同時代のいろいろな文体が収録される結果となり,このため鎌倉時代前後の和風変体漢文を指して,吾妻鏡体と呼ぶ。

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【勢陽五鈴遺響】 セイヨウゴレイイキョウ

江戸時代末期の1833年(天保4年)に完成した伊勢国(現・三重県)に関する地誌。略して五鈴遺響とも称する。
伊勢国山田古市(現・三重県伊勢市古市町)の郷土史家である安岡親毅(1758年 – 1828年)が編纂、没後は妻である安岡八千女が引き継ぎ補修し、門人である増井惟休、中西正稻等の校正を経て完成する。寄稿から完成までに約50年を費やした。
江戸時代以前の伊勢国各地の歴史・地理が詳細に記されており、三重県内の郷土資料に数多く引用されている。
明治以降、活字化されたものが何度か出版されている。

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【半済】 ハンゼイ

室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。半済を認める法令を半済令または半済法という。
元来、半済とは「年貢の半分を納付する」という意味より百姓の年貢の半分を免除することを意味していたが、南北朝時代頃から、守護が軍費・兵糧を現地調達するために、荘園・公領の年貢の半分を軍勢に預け置くことが、半済として行われ始め、1352年に最初の半済令が幕府から出された。
(なお、南北朝・室町時代においても年貢の半分免除の意味で「半済」という言葉が用いられる場合も存在しており注意を要する)。
これを契機に、守護による荘園・公領への侵蝕が本格化し、守護領国制・守護大名の誕生へとつながっていった。

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【郷士】 ゴウシ

江戸時代,農村に居住した武士。また,由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)。後期には献金によって郷士となる者が多くなった。郷侍。金納郷士。

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【伊佐那岐命】 イザナギノミコト

イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐)は、古事記、日本神話に登場する皇祖神。イザナキとも。『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)の夫。
天照大神やスサノオ、住吉三神(底筒男命=そこつつのおのみこと、中筒男命=なかつつのおのみこと、表筒男命=うわつつのおのみこと)の父親であり、神武天皇(ヤマト・イワレヒコ)の7代先祖である。

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【素盞嗚尊】 スサノオノミコト

素盞嗚尊はイザナギが黄泉の国より戻り、穢れを禊みそぎによって落としたときに鼻から生まれたと古事記では記されている。天照大神、月讀神、素盞嗚尊からなる三貴子の中で末子にあたる。

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【七堂伽藍】シチドウ ガラン

七堂伽藍とは、寺の主要な七つの建物。また、七つの堂のそろった大きな寺。▽「七堂」は塔・金堂こんどう講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂じきどう。禅宗では山門・仏殿・法堂はっとう庫裡くり僧堂・浴室・東司とうす(便所)を指すことが多く、宗派などにより異なる。「伽藍」は寺の建物。寺院。

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【奄芸郡】(アンキ グン・アンゲ グン)
伊勢国にかつて存在した郡。1896年(明治29年)3月29日 河曲郡と合併して河芸郡となった。

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【棟札】((ムネフダ・ムナフダ)
寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札である。典型的には、木の札または銅の板に記して釘で打ち付ける。
書かれる内容は築造・修理の目的を記した意趣文やその年月日や建築主・大工の名・工事の目的など建築記録だが、関連して他の事に及ぶものもある。簡潔なものもあれば、詳細に記されたもの、絵柄が記されたものなど多種多様である。棟札は普通の利用者には見えない位置に取り付けられるため、年月か経つとしばしば存在が忘れられてしまう。そうした棟札が解体・修理の際に発見されることがある。
棟札に記されていることは誤記などもあるが、その建物をはじめその地域の歴史や文化に関する重要な歴史的史料となり、文化財に指定されているものも多い。
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