昼生庄

【昼生庄】 ひるおのしょう
          
 鈴鹿部と奄芸郡の境界にあたる中ノ川流域に比定される。この地域は蛭(ヒビル)谷とよばれ、中世以後は昼埋庄にちなむ中庄・下庄・上小屋:現神向谷か)の地名が残る。
また中ノ川に沿って西に続く三寺・田茂・安知本および久我(現在 鈴鹿郡関町)を併せて昼生七郷と称し(三国地志)、昼生谷には伊勢平氏の一族が住人だという。「吾妻鏡」には伊勢国住人伊藤武者次郎(治承4年10月20日条)・蛭伊藤次(義和元年正月21日条)などの名がみえる。
同書文治3年(1187)4月29日条によれば、この年3月の公卿勅使に際して駅家雑事を勤仕しなかった荘の筆頭に昼生庄があげられ、預所は斎院次官中原親能・代官民部太夫範重とある。
寛喜3年(1231)8月30日某請文(「民経記」裏文書)にも「昼生圧公卿勅使駅家雑事、当庄依大神宮本御□、如此役被下免除宣旨候了、(中略)当御厨為勅免之地之条、無其隠事候、且役夫工米尚以下致沙汰者也」と述べ
ており、諸荘園の負担するべき諸役を昼生庄が免除されていたのは、それが伊勢神宮領に属したことによる。
 もともと昼生庄は伊勢神宮の御厨の地であったらしく、建久3年(1192)8月の神領注文(神宮雑書)には
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 昼生御厨 ○給主頭中将家
   件御厨、為往古神領之上、去治承五年改寄進、
   養和元年被下孝免 宣旨也、  
 供祭物 内宮方上分米三石 下宮方上分米五石 別進起請雑用米七石
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とある。これによれば昼生御厨が「往石神領」であり、二所大神宮に上分米を出したことがわかる。なお「中臣祐定記」(「春日社記録」所収)
寛元4年(1246}4月9日条には、この日執行された恒例の二季御八講に際して「蒜生上分備進」の記録があり、昼生庄が奈良興福寺領に属したことを示している。昼生上庄は「満済准后日記」永亨3年(1431)8月7日条に「(前略)為関入道跡、去々年為忠功賞拝領之内、昼生上庄等可渡付高嶋云々(下略)」とあり、中庄・下庄については室町幕府が半済をめぐって仁木頼章に両荘の違乱を退けさせ、延文2年(1357)8月21日、下地を中御門宰相(宗重か)家雑掌良禅に返付した記録がある(京都御所東山御文庫記録)。

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