下ノ庄村

【下ノ庄村】 しものしょうむら 現在の下庄町

中ノ庄村の衆にあたり、昼生谷東端部に位置する。中ノ川を鋏む大村で、北側緩斜地と南側台地上に集落がある。
北山遺跡・下庄遺跡など古墳時代の遺跡がある。中世には昼生庄に属し、上ノ庄・下ノ圧に該当したと思われる。
「三国地志」によれば昼生七郷のうちに「下之荘-無民戸」と「上小屋-下荘支郷」があり、地内に残る神向谷は上小屋をさすものと推定される。
昼生谷には伊勢平氏の一族、蛭伊藤次(吾妻鏡)が住んでいたらしいが、関谷二四郷の一にも数えられる(九九五集)。
地内には土塁や井戸の遺構を備えた中世の館跡があるが、その主はわからない。
 近世は久居藩領。享保10年(1725)以後は関宿付の
助郷村に加えられた(亀山地方郷土史)。寛延期(1748-51)の家数183戸、ほかに郷士1、人数792人、馬24頭、牛23頭(宗国史)。
神祠に式内江神社があり、慶長18年(1613)の棟札が残る。稲田の用水に利用された村内の大沼にちなんで井手明神ともいった(五鈴遺郷)。
ほかに天宝天王・神明・権現・八王子・鈴明神・白山を祠る(宗国史)。
寺院に弘法寺・誓徳寺・西蓮寺(真宗高田派)、西岸寺(浄土宗)、栄仙寺(天台真盛宗)、地蔵堂がある。
なお下ノ庄無里があり、元禄郷帳・天保郷帳に石高の記載があるが、明治九年当村に合併。
明治2年(1869)宮村喜樂によって創設された下庄義塾(のち下庄学校・江社学校)は、同17年、三寺・中庄両村連合の昼生学校と合同して篤信学校となった。
同22年、これら二ヵ村と合併して昼生村を構成。このときの下ノ庄の戸数218戸、人数1285人、田畑182町余(郡町村分合取調帖」三重県庁蔵)。

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